鮭さけとしゃけ考 中村直人氏寄稿

日本各地で親しまれている鮭ですが、その呼び名には不思議な飛 び地的傾向が読み取れます。
回帰流域の一般庶民の口からその時 代の支配層への献上物や珍重品へと、
捉えられた後でも出世溯上してゆく鮭の行動力を想像力を駆使して迫ってみたいと思います。

鮭は交易品だった

むかしむかしから鮭は交易品だった

□むかしむかしから鮭は交易品だった  
石器・縄文狩猟のむかしから山や野の民の生活物質は地元山河で獲(採)れた授かり物であり、
その他不足する物質は難を承知の交易で補っていたことが覗えます。
狩猟採取の矢尻や石刃物、司 祭や約定の御印である鉱物加工品の遺物にはじまり、
獣・魚皮の骨や防寒衣類なども多数発掘さ れています。
毎年同じ時期に決まって回帰する鮭の習性を理解していただけでなく、
交通に閉ざさ れた山奥にももたらされる”神からの贈り物”を供物として崇め奉っていました。
と同時に、他の生活物資との物物交換の原資として重要な交易品だったことが当時の世界観と供に偲ばれています。

そのむかし鮭はお供え物や献上品だった  
世は移り時の政権やそれを支える貴族の私墾田的荘園から献じられる産物や神社のお供え物 は、
しばしば中央にまで届けられ政権の営みの中で格式の形成や交流の方便として珍重されてい ました。
平安貴族の「延喜式」にも日本海沿岸諸国から献上の記事が載せられています。
北(東)国にひろがる中央貴族の所有地から船積みされ、
続々と京へ溯る晴れがましい供物たちを待ち焦がれる都人の嬉々とした姿が想像されます。

□鮭は北日本のみならず古東京湾にも溯っていた  
徳川時代を迎える以前の関東や坂東の地は入江や沢沼の多い潤沢な低湿地原野でした。
康正2 年(1456年)太田道灌が開拓した武蔵国豊島郡江戸村の地は地名が示す通りの河口の入江寒村であり、
当時の中心地はさら北西に溯った浅草だったことが知られています。
現隅田川はその当時 は古利根川の支流で、現在の荒川に付け替えされるまでは運河交通の要所をなしていました。
庶民の浅草観音(628年草創)詣でや北関東からの集積地としても賑わっていました。
それは現在の築 地市場に例えられるような役割であり、江戸前の活魚や海産物が取引されていたように考えられて います。
その河口に踊る鮭の魚影は太平洋側溯上の南限であり、北茨城側から運河や入江を経て 現多摩川へと溯上していた面影は、
現在のカムバックサーモン運動からも偲ばれることができます。
その溯上経路の東端入口に当たる北関東の常陸茨城ではすでに親しまれていて、
古茨城弁で「 しやけ」と呼ばれていてと推測されています。
その語源はアイヌ語の「シエペ、シペ(本当に食べるも の、乾したもの)」からともいわれています。
当時の埼玉や千葉の関東方言には「さ」を「しゃ」と呼び習わすことが一般化していて
「匙さじ」を「しゃじ」と言ったり、「鮭さけ」を「しゃけ[∫ake]」と呼び習わしてい たと考えられます。

鮭は褒美や贈答品

鮭は褒美や贈答品として江戸よりくだされていた

□すこし昔、鮭は褒美や贈答品として江戸よりくだされていた  
徳川時代が進むにつれ土木干拓事業により土地は平地化されて人も増え、
その中心は江戸城の 周囲である下町へと移って現在の東京に至っています。
将軍家である駿河藩は、在京の親藩であ る御三卿の田安家、一ツ橋家、清水家のほか徳川御三家を創設し
常陸水戸藩、尾張藩、紀州藩 体制も確立し以後250年間の安泰を築きました。
徳川将軍家に上納された鮭は、整備された街道や 海上交通を下って今度は御三家を筆頭とする大名領地である各地方へ
贈答あるいは褒美や報酬 としてくだし流通したと思われます。
収穫の誉れを纏った晴れの姿で常陸から浅草へ、浅草から江戸へと呼び親しまれた「鮭しゃけ」とい う関東(坂東)訛りとともに‥…。
そして現代では東京(江戸)はもとより茨城(水戸)埼玉・千葉の関東各地や静岡(駿河)・和歌山(紀 州)・広島(安芸)などの西日本の一部で
「しゃけ」派が生きづいている由縁なのではないでしょうか。

鮭さけとしゃけ考

鮭さけとしゃけ考

充分なもてなしを享け昇天してゆく獲物達は、今度はその返礼に”みやんげ “を携えて神の国からその仲間達がまた降りて現れることを願うイオマンテの 儀式が厳冬期に行なわれています。
古沿岸跡にひろがる貝塚遺跡は神送 りの儀式跡として位置付けられ、鮭の歯なども多数埋葬されていました。

川で産卵を終えた鮭の身や体皮は 引き締まり痩せ細ろえていますが、その身は脂が抜けているため保存に向 き、
その皮は硬く締り靴に加工されていました。
その靴はアイヌ語ではチエ プケレと呼ばれています。
アイヌでは鮭を「シエペ、シペ(本当に食べるもの)」、鱒を「サキペ、サッイ ペ、サクイベ、シャケンベ(夏の食べ 物)」と呼び習わし、
厳寒期でも当てに できる鮭の重要性においても呼び尊んできたといいます。
参照:「アイヌ歳時記~二風谷のくらしと心」萱野茂 著、平凡社2000.8

越後地方では”えちご”を”いちご” と言ったりする「あえいえお」母音が しばしば表れます。
“うお”を”いお” と呼び習わすことも方言ならではの 味わいを醸し出します。